石北本線 遠軽から乗ってみた④

上川を出てから次の大きな街と言うとここ遠軽ですーと、いっても町ですが・・・。(前半でもスイッチバックと書いた)遠軽駅は、そのまま真っ直ぐ進むと湧別から海沿いを北上、紋別経由で名寄へ向かう旧名寄線や旧渚滑線へ始発駅として、また先ほどの湧別からオホーツク海沿岸を南に向かい、サロマ湖沿いに常呂を経由して網走に向かう旧湧網線が走っていて、町の規模より鉄道拠点としての規模(重要度)が大きかった町です。旭川や北見方面からは特急や急行列車が早朝から深夜に到着、乗務員も交代、また貨物列車もそれぞれへ方向転換するため機関車の付け替えの業務、客貨の中規模ヤードや大型の扇型車庫を備えた機関区があり、何かとせわしなく活気の感じられる駅でした。すっかり変わってしまいましたが、今もその名残であるターンテーブルが駅舎の向こう側に「夢の跡」として残っています。
(早朝や夜の)暗い時間帯によく利用していたため、はっきりと覚えていませんが、駅が少しだけ高い位置にあり、町が見渡せるようになっていて、今では石垣になっている駅正面が当時はたしか階段になっていたはず・・・。札幌からの夜行急行をここで降り、旧名寄線の始発(早朝の4時頃)に乗り換えたり、先ほどの駅前の階段を降りて右手にすぐ入ったところに銭湯があり、お湯に浸かってから札幌行夜行列車に乗ったなあ・・・っていう何かと思い出深い駅です。駅舎自体は小さくて、ちょっと前まで建物の端にうどん店がありましたが、今はやっていません。上屋だけが残り、音威子府の蕎麦屋さんと同じです。
車かバイクを運転し(網走から北に行き、遠軽の東側にある)湧別、紋別、浜頓別方面に宗谷岬を経て稚内までいくと200か300kmだったか?・・・あり、オホーツク沿岸のドライブが心行くまで味わえます、まあ運転するのが苦痛にならない人向きですが・・・。今なら自動運転の車があったりして、それなりに「くつろげる」かもしれませんが、沢山の休憩と大自然と食事、時間の消費を思いっきり、優先するほうがより楽しむことができます。
【ちょっとだけ違う気がする】
さあ、途中下車から再び乗り込んだディーゼルカーさっきと同じです。到着とは反対方向に右手に来たレールを見ながら出発、家々が密集!という事も無く、町というくらいなので5分も走ると家も途切れがち•••、畑が目立ち始めたところで安国です。

安国はかつて木材貨物の扱いがあり、両側ホームでしたが、いつからか島式に。シンプルで小さなホーム、メルヘンチックな生野を過ぎ、ゆるい勾配が生田原にかけて続きます。

生田原は常紋峠を越えるための東の入口、国鉄時代にはここから貨物列車に補機が付いていたため、駅舎反対側のホーム向こうに三線程度の空き地があり、そこが待機設備の名残、すでに40年程度が経過していて、自然と化し当然の如く面影は全くありません。

生田原駅出発直後からエンジン音が重く、速度も上がりません。左右に小さくカーブしながら液体クラッチもロウのまま、ゆっくりと上って行きます。原生林が両側からどん、でもどん近づいてきて、もうそろそろか?と思うのですが、なかなか汽笛が鳴りません。ますます速度が落ちてきて、昔もこんなに遅かったかなあ?まさか止まるんじゃないか?と思うようなスピードになったところで汽笛が鳴り、「こんなに(距離が)あったかなあ?」と思いつつ有名な曰く付きのトンネルに進入。

少しスピードが戻ってトンネルを出たところに防雪トンネルが見え、右前と左後に退避線跡が残り、その信号機のバッテンが痛々しく見えたところが常紋信号所跡。廃止前も信号所でしたが、以前は臨時乗降場としても使われていたところです。今風でいうところの「撮り鉄」に興じた頃にはここで降りたり乗ったりした事がよくありました。ホームが無いので手すりを持って乗り込む感じです。

信号所跡からは下り坂ですが、大雪峠とは違い、短い直線に左へ、右へのカーブの連続、下っているからと言ってスピードが上がることはありません。生田原側とは違い、どちらか片側が開けていて、左右に見える小高い丘からの上り列車を撮る、有名なフォトエリアでした。進入信号の黄色が見えて減速し、金華信号所に停車です。
常紋峠の東側の入口が生田原ですが、西側はこの金華か次の留辺蘂。ジオラマを作って遊ぶ楽しさいうとどっちも捨て難いのですが、特急や急行が停車し待避線など、駅と町の規模では留辺蘂です。ですが、急勾配のはじまりで、乗務員詰所があり、アッシュピットや給水設備、補助機関車用待機線に峠越え待ちに9600型が煙をくゆらせていた思い出から、存在感があったところからこっち押しです。冬の常紋越えの写真を撮りに雪の中、フォトポイントにラッセルしながら向かう折にお世話になったのが、この駅だったので余計に思い入れが深い!っていうのもあります。信号所で残っているけど、駅含めて残念だなぁ・・・と感傷に浸りました。

冬場の話ですが、今のようにヒートテックやダウンジャケットの言葉さえ無い頃で、大きいジャンパーの下にはセーターと下着をダブルで、ズボンの下にジャージを履いて更に雨合羽の下側を使って準備する。長靴にスキー用靴下、毛糸の手袋のいでたちは、思い出しても笑いを通り越し、もう罰ゲームの域かも。「シマムラ」や「ユニクロ」が無い時代です、格好なんて言ってると凍死しかねない、それでも寒さを凌げている訳ではなく、それしかないのを若さでクリアしていたっていうところでした。
まあイメージ的には唐津線の多久と厳木の間がこんな感じです、でも気候と距離的規模は全然違いますが・・・。

特急と交換後、景色の変わった直線を軽快に走っていく。昔のかおりがかろうじて残る留辺蘂でまたも上り普通列車交換となり、お客さんの乗り降りが終わると同じように出発した。

留辺蘂を出るとビート畑の中を北見に向かって快調飛ばしていく。相の内、東相の内、西北見と停車し、その先のトンネルで地下に潜って出て来たところで北見に到着。長時間停車なので、外に出てみた。当時、お土産を買ったデパートが賑わいを失いながらもまだ存在し、ホットする、地下も通路をふくめ昔のまま。北見はハッカが有名らしくハッカ〇〇を買おうとしたら、そこのおじさんに「今はハッカなんか作ってないよ」と知らなくていい現実知りガッカリ•••したのを思い出しました。

秋になるとたまねぎの香り満載の風が吹く(と言われていましたが)北見を出て高架道が柏陽の先まで続く。柏陽は近くに創立から100年近くの由緒ある高校があります。いとし野の駅では列車がホームに停車しているにもかかわらず、暗黙了解か運転手さんも全員が乗り込むのを待って出発、ダッシュして乗り込む生徒なんていません。

端野に到着して周りを見渡して はて、こんなだったかな?って と考えてしまった。
出発後に大きくカーブし道路と離れてくると少し思い出しました。大昔のことの上、周りが綺麗になっているために全く理解出来ていなかったのと緋牛内と勘違いしていたためです。見通しの良いカーブをいくつか過ぎて今度はほんとに緋牛内。

駅の前後は開けていて天候に恵まれるなら便利な近くで、様になる「絵」が撮れていた。もう少し根性出すならトンネル先の美幌から来る上りを吹雪まじりで撮るとカッコいい「絵」になります。とは言うものの、吹雪の中なんて今ではとても考えられません。うぉーさむい!!

ーで、美幌。日本てんさいとうの工場がすぐそばにあり、シンボルみたいですぐに思い出しました。木材の積み出しもあり、広めヤード、旧相生線があったので三線のホームもある、冬場の夜行急行「大雪」が入線し、客車の合間に蒸気暖房の湯気が映えるホームの夜景が、一段といい雰囲気だったんだよなぁ・・・。

美幌を出てすこしのところに短めで絵になる鉄橋ある。それを正面から見れる家があり、当時そこの家人にお願いして写真を撮らせてもらえないか?と頼みにいったところ、すでに他の人がお願いしたらしく、「勘弁してほしい」とやんわり断られました。やっぱりあつかましいお願いだったなあ、と思うのと同じことを考える人がいるものだ、とちょっと驚いたことも思いだしました。にしめまんべつ、見渡すとー何も無い。千と千尋の神隠しを地で行くところだ。ここからだと歩いてもそれほど遠くないところに女満別空港がある。先から線路そばの林を伐採しているので林の厚みが減り木々の間から畑と家が見える。原野の中を突っ走っている訳じゃないのを今頃になって知った。めまんべつからは網走湖が見えて、国道沿いを軽やかに走りまもなく終着駅に到着だ。
特急だと半分以下の時間で付きますが、それでも中身は充実していたのでそれなりに満足・・・って話をしたら「単に時間を浪費しただけですよね?」って言われちゃいました。